そぞろごと

本、鉱物、音楽、etc.

オクターヴ・ミルボー「小間使の日記」

ルイス・ブニュエルの「小間使の日記」。これは大昔にビデオで借りて見たことは見たが、いまとなっては内容をまったく思い出せない。まあ、この映画に限らず、ブニュエルの映画はどれもみな夢のなかの出来事のようで、あとから思い出そうとしてもうまく行かないことが多いようだ。

さて、この映画の原作であるミルボーの小説だが、かつてはこれの訳本がけっこう出回っていて、たまに古本屋で見かけると、ビニールでカバーがしてある。本が傷むからという理由のほかに、18禁という意味合いもあったらしい。なるほどその手の本なのか、と思うと、ますます魅力的に見えてくるのだった。

当時フランスではこの本のペーパーバックなどはいくらでも出ていて、安かったので一冊買って通勤の電車のなかで読んでいた。しかし、おそろしいことに内容がほとんど頭に入ってこない。ただそのインモラルな雰囲気が、なんとなくブニュエルの映画と共通しているな、というだけの認識に終ってしまった。これはなんといっても私の語学力不足が原因だ。

あれから30年。ふとした気まぐれでふたたびミルボーの本を通勤電車で読んでみようという気になった。本を取り出してページを開くと、30年前と変らない匂いがする。なんとなく石油臭い匂いで、私にはたまらなく懐かしい匂いだ。

さて、このたびの車中読書だが、前とは比較にならないくらいさくさく読めた。やはり30年という年月は大きい。

それにしてもなんという小説だろう。フランスの自然主義文学というのはこういうものなのか。とにかく人間性の底の底にあるどろどろしたもの、猥雑なもの、邪悪なものをこれでもかとばかりに並べ立ててある。

作中人物では、下男のジョゼフというのが一種の悪魔か吸血鬼のような存在として描かれているのが印象的だった。この造形はかなりのもので、ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」とともに、世紀末のぎりぎりになって吸血鬼が本来の男性的存在に立ち戻ったことを立証する*1

これを読んで、もう一度ブニュエルの映画を見たくなった。

*1:マリオ・プラーツいわく、吸血鬼は19世紀の前半は男性的存在だったが、後半にいたって女性的存在になった、と