そぞろごと

本、鉱物、音楽、etc.

かたち三昧(高山宏著)を読んで

高山宏の本はどれもおもしろい。そのことを認めたうえでいうのだが、氏の本を読んでいると、どうもこっちの頭がどんどんわるくなるような気がする。氏の好んで口にされる「おバカ~」にこっちがなってしまうのである。どうしてこうなのか。

そもそも氏の本を読んだあとに何が残るかというと、何人もの作家や研究者の名前と、かれらの書いた本の名前、それだけである。取り扱われた対象は夢幻のごとく消え失せ、書き手たる高山氏の姿ももはやそこにはない。いったい自分はなにを読んでいたのか、そこではなにが問題だったかもはっきりとは思い出せない。

これはおそらく私にかぎったことではなく、たいていの高山ファンに共通したものではないかと思う。で、この不可解なまでの捉えどころのなさが何に起因するかというと、おそらくそれは氏が極度の弱視であることと無関係ではない。

自分の眼だけではものが見えない(見えにくい)人はどうするか。眼鏡をかける。それは当然だ。しかし、私は自分も目がわるいのでよく分るのだが、眼鏡をかけて見た対象と、裸眼で見た対象とは、同じようにみえてじつは微妙に違うのである。微妙に? ──いやいや、微妙ではあるが、そこには決定的な違いがある。

その違いを一言でいえば、裸眼で見た対象がそのまますんなりと自分のなかに入ってきて、そこに対象と自己との一体感が生じるのに対し、眼鏡越しに見る対象は、どこまでも一抹の違和感がぬぐい切れず、自己と完全に同化するには至らないのである。裸眼でみる対象が、手でぐっとものをつかむような生々しいリアル感を伴うのに対し、レンズ越しに見る対象には、どこまでいっても手では触れない、いまいましくなるようなもどかしさがある。

高山氏は本を読むのに、モノとしての眼鏡をかけるのみならず、さまざまな研究者の書物という、比喩的な眼鏡をかける。それもかけてかけてかけまくる。このような場合、見ている対象の姿はどう映るだろうか。

眼鏡は多くかければかけるほど、その映す対象は本来のあり方から遠ざかっていく。どんどんリアルではなくなっていく。つまり事象性を失って、抽象的な「かたち」になっていくのである。

「かたち」とは、事象から事象性を奪ったところに生じるなにものかであり、その限りではイコンというよりイデアにきわめて近い。

高山氏はこのイデアとしての「もの」をイコンのつもりで見るから、われわれにはなんのことかさっぱり分らず、五里霧中ということになってしまうのではないか。

そんなことを思いながら読んだ「かたち三昧」でした。


かたち三昧

かたち三昧