本の余白に

読書メモ

今日はボードレールの

悪口を書こう。

私はこの詩人、この世界的詩人が好きなのか、嫌いなのか、これまでずっと自分でも分っていなかった。読み始めたころは、たぶん嫌いだったと思う。芥川の「人生は一行のボードレールにも若かない」というフレーズに導かれるようにして読んでみたものの、なんだか南国の蒸し暑い感じがして好きになれなかった。

しかしそのうちその「嫌い」という感覚がだんだん麻痺してきて、ほとんど「好き」に転向してしまった時期もあった。それはやっぱり鈴木信太郎という訳者の力も大きかったと思う。この人の訳した「露台」とか「秋の歌」には、身に沁むような、懐かしい情緒がそこはかとなく漂っていた。

しかし「露台」や「秋の歌」がいくらすばらしくても、そういうのはボードレールの本質ではないような気がする。たまたま、まぐれ当たり的にいい詩を書いてしまう瞬間もあった、というだけのことだろう。

悪の華」は、まぐれ当たり的ないい詩がほんの少しと、大部分を占めるつまらない詩で構成されている。でもって、長年この詩集に親しんでいると、そういうつまらない、取るに足らない詩篇のほうにボードレールの本質がよく現れているんじゃないか、という気がしてくる。

その本質とは何か、というと、いわゆるジャーナリズム、つまり売文業ですね。

優れた詩人であっても、詩だけでは食えないので、しかたなしに売文をやって身銭をかせぐ、という行き方があって、もちろんそれはそれでいっこうにかまわない。ただ、ボードレールの場合は、詩すらも売文の一環、一方便としているきらいがあって、そういう一種の軽さがだんだん鼻についてくるのだ。

ボードレールの詩は、べつに韻文である必要もなく、散文をむりやり韻文にしあげたようなところがある。なるほど書いてあることはよく分る。しかしその分りやすいところが、もう詩とは縁遠い散文なのだ。要するに彼は散文でも書ける、散文で書いたほうがよく伝わる内容を詩という形式に盛っただけの、エセ詩人である、というのが私の考えだ。

トルストイの芸術論では、フランスの近代、現代詩人がぼろくそに叩かれているが、ボードレールに関する部分だけは正鵠を得ていると思う。

きょうの天地のすばらしさ! くつわも拍車も手綱もつけずに さあ ぶどう酒にまたがって 神々しい夢幻の空へと出発しよう!

執念深い脳の病いに苦しむ二人の天使のように 朝の青い水晶の中 はるかな蜃気楼を追って行こう!

気の利く旋風のつばさの上に ふわりふわりと身を揺られ どちらも互いにわれを忘れて

妹よ 並んで浮かびながら さあ 逃げて行こう うまず休まず わたしの夢の天国のほうへ!

(村上菊一郎訳、「愛し合う二人のぶどう酒」)