そぞろごと

本、鉱物、音楽、etc.

コーヒー考

酒もタバコもやらないので、コーヒーばかり毎日飲んでいる。最近ようやっとフレッシュを入れないほうが(つまりブラックのほうが)うまいと感じられるようになって、これで私のコーヒー遍歴も最終段階に入ったような気がしている。

ところで、毎日無反省にがぶがぶ飲んでいるコーヒーだが、これははたしてうまいのか? という疑問がふと浮かんだ。とくにコンビニやマクドナルドで売っている100円コーヒー。あれはいったいうまいのかどうか?

私がそもそもコーヒー好きになったのは、今を去ることウン十年の昔、小学生のころ初めて入った純喫茶で飲んだコーヒーにショックを受けたことによる。それは一種の啓示だった。味も香りもそれまで家で飲んでいたインスタントコーヒーとはまったく別次元のもので、世の中にこれほどうまい飲み物があったとは、とひたすら驚いていた。

そのころはもちろんコーヒーには砂糖とフレッシュを入れていた。それが当り前だったし、ブラックなんていうのはカッコつけてるだけで、ほんとにうまいと思って飲んでるやつはいない、と(浅はかにも!)考えていた。

さて、現在私が飲んでいるコーヒーだが、どうも当時のコーヒーとは味がだいぶ変ってきているような気がする。じっさい、いまのコーヒーに砂糖とフレッシュを入れたら、当時のコーヒー体験がもう一度味わえるか? といえば、答えはおそらく否。

当時の味を簡単に追体験するには、コーヒーではなく、コーヒーゼリーを食するに若くはない。ほんのり甘いコーヒーゼリーにフレッシュを滴らせた味こそが、今を去ることウン十年の昔、小学生のころの私を驚倒せしめたコーヒーの味にもっとも近いと思われる。

それでなくとも、たとえばカレー屋とかうどん屋とかで食後にサービスとして出すちょっとしたコーヒー。あれが意外にうまくて、私にコーヒー原体験の幻影をちらりと見せてくれる。

そういえば、当時の喫茶店のコーヒーは、ほとんどすべてサイフォン式だった。今でも年に一度くらいはサイフォン式のコーヒーを飲むが、やっぱりうまいと思う。サイフォン式とドリップ式とでは、前者に軍配が上がるのでは? ただ、うちで作るとすると、サイフォン式はめんどうなだけでなく、いつまで経ってもうまく作れないという難点があって、今後も一般化はしないだろう。

まあ、うちで作るコーヒーはけっこううまいからよしとしよう。問題は、ついつい買ってしまうコンビニコーヒーだ。

あんなまずいものに100円出すのはバカげてはいまいか?

コンビニコーヒーがもしうまければ、なにしろ機械が2台くらいしかないのだから、もっと行列ができてもおかしくないのに、たいていガラガラで、だれも買っていない。つまり、みんなあれが100円の価値はないことを知っているわけだ。

そうとも気づかず、これまで莫大な量の100円硬貨をコンビニに投下してきた自分はなんという愚か者であろう。

というわけで、コンビニコーヒーを買うのはもうやめた。じゃ何を飲むか? それはまだ考えていない。

コンビニコーヒーがせめてドトールくらいの味になれば、と思うが、やはり100円ではむつかしいのだろうか。

ドラムについて思うこと、その二

宅録にスネアを導入してみたが、やはり慣れない楽器なので、どうも他楽器とのバランスがわるい。もちろん、たんにリズムを送り出す役目だけにとどめておくのなら、いまの状態でもとくに問題はないが、そこは楽器オタクの悲しさで、宅録そっちのけでスネアにのめり込んでいく自分を抑えることができない。これはまずいぞよ。これが嵩じると、ついにはドラムセット一式そろえないと満足できないところまで行ってしまう。

では、かりにドラムセットが手に入り、練習できる環境が整ったとして、自分はいったいそれで何がやりたいのか?

ドラムセットに座ったドラマーにスティックを持たせると、ほぼ全員がなにかリズム・パターンを叩き出す。ロックか、ジャズか、ファンクか、なにかそのへんのリズム・パターン。そしてこれらに共通しているのは、2拍4拍にアクセントがくることだ。

私はたいていのドラマーが、この2拍4拍のアクセントに何の疑いも抱かず、ごくごく当り前のようにオフビートを強調したリズムを叩くのに、じつはちょっと驚いている。だって考えてもみよ。いわゆる文明国に属する文化圏で、こんな裏返ったリズムが主導権を握ったのは、せいぜいここ100年ほどのことにすぎない。西洋のクラシック音楽から日本の俗謡まで、拍子をとるのは頭打ちが基本なのだ。

古い映画などで見る、カラオケがなかったころの手拍子での宴会のシーン。あの頭打ちのリズムのダサさには辟易するが、洋楽になじんだ世代の人々が民謡や演歌などで2拍4拍に手拍子を入れるのも同じくらいダサい。同様に、昨今のドラマーのほとんどが千篇一律のごとくに繰り出す2拍4拍強調リズムのダサさにもやりきれないものを感じている。

じゃあどう叩けばいいのよ、と訊かれるかもしれない。いや、まあそこは好きに叩いてもらえばいいので、私の意見などはどうでもいいのだが、私の好きなドラマーは、2拍4拍のオフビートを感じさせないタイプの人が多い。そして、そういうドラマーの元祖はといえば、マイルスのグループで頭角をあらわしたトニー・ウィリアムスではないかと思う。

初期のトニーがどういうふうにリズムを解釈し、フレーズを組み立てているのか、一聴しただけでは非常にわかりにくいが、腰振りダンスとは程遠いところで展開されるストイックで知的な演奏は非常に魅力的だし、こういう演奏があるがために、ジャズという音楽が一種の敬意をもって迎えられるんだと思う。



というわけで、私の関心の的は、ドラムの王道(バディ・リッチ流の)ではなく、その髄の髄のいちばん精妙な部分なのである。基礎なしで、いきなりこの高みに至ろうとするのが無謀、もっと正確に言えば無理なのはわかっているが、私にはもう基礎からやっている時間がないのだ。

この種のストイシズムを極端にまで推し進めたものとして、私の記憶に残っているのは、意外に思われるかもしれないが、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」だ。この曲の終盤に少しだけ出てくるサンバル・アンティークの演奏。あの絶え入りそうな、しかし凛とした響きを自分の音楽に取り入れることができれば、と思う。

ドラムについて思うこと

宅録に興味をもつと、どうしても視野に入ってくるのが打楽器だ。もちろん、打楽器のデジタル音源は数限りなくあって、そういうものを使うほうが DTM としての完成度は高くなるのかもしれないが、生楽器を演奏の主体とするのなら、やはりアコースティック打楽器は外せない。

そういうわけで、前から欲しかったスネアをヤフオクで買った。どうせ本格的にやるわけではないから、とにかく安いものを、と考えて、500円の台湾製のを落札した。



大方のドラマーにとって、500円のスネアなんて何の価値もないだろう。しかし私にはこれで十分だ。そもそも私はスネアの音色の違いがよくわからず、だれがどんなメーカーのものを叩こうと、どれもいっしょにきこえてしまうのである。そんな人間が高価な楽器を手に入れたところで、まさに猫に小判、豚に真珠のたぐいであろう。

さて、ドラムという楽器はうちで練習しにくい楽器の最たるもので、とにかく音がバカでかい。野中の一軒家ならいざ知らず、住宅街では地下に防音室でも作らないかぎり、自宅で練習するのはむりだ。

私はスネアをスティックで叩くのははなから諦めている。スティックではなくてブラシこそが、四畳半ドラマーの必須アイテムでなければならない。幸いにして、いまでは動画サイトなどで名手の演奏が居ながらにして視聴できるので、そういったところから技を盗めばいい。

私が意外に思ったのは、ブラシでもけっこう大きな音が出ることだ。CDに合わせてシャカシャカやると、CDの音がかき消さされてしまうほど。たしかに考えてみれば、ドラムセット全体でピアノ、ベースと張り合うくらいの音量はあるわけだから、それも当然だろう。地味でせこいと思われがちなブラシ奏法だが、音量だけでもすでに四畳半的枠組みからはみ出している。


     * * *


もともとは独立していた大太鼓や小太鼓、シンバルなどを組み合わせて、一人で演奏できるようにしたいわゆるドラムセットが一般に認知されたのは、そう古いことではない。たぶんその歴史は100年くらいしかない。しかしそのごく早い時期に、すでに今日とあまり変らないドラムセットが確立されているのは驚きだ。

もちろんその後もドラムは進化を続けていて、今日ではマジキチといいたくなるようなセットもあるが、やはり一般的には3点セットプラスαのようなのが好まれるようだ。なぜかというと、ドラムの役割をリズムの表現に限定すると、そんなにたくさんの太鼓は必要ないし、数が少ないほうがなんといってもコントロールが楽だろうから。

むやみやたらと太鼓の数をふやすドラマー*1は、おそらくなにか勘違いをしているんだと思う。つまり、かれらはドラムセットをリズム楽器としてではなくメロディ楽器として扱おうという心組みらしいが、これに非常な無理があることはだれでもわかるだろう。人間の耳は個々のドラムの音の微妙な違いを聞き分けられるほどよくはないので、なんだかわからんけどいろんな太鼓がごちゃごちゃ鳴ってるなあ、というくらいの反応しか期待できない。そもそも人は口ずさめないような音の連なりをメロディとは認識しないのである。

私はそういう最先端の(?)ドラマーから遠く離れて、3点セットにも満たない2点セットでリズムを追求していきたい。2点セット、つまりスネアとハイハットだ。これらをスティックではなくブラシでこすったり叩いたりしてリズムの表現をするわけだが、ちゃんとした音楽になるまで、何年かかるだろうか?

人もすなる宅録というものを

われもしてみんとて、機材一式購入した。といっても、そんなにお金はかからない。2万円でおつりがくる程度。これでちゃんとした録音ができるのだから、ありがたい時代になったものだ。

そもそもなんで宅録などに手を出したかといえば、前に企画したバンド内でのスーパーギタートリオごっこが、諸般の事情で頓挫してしまったので、一人三役をこなすつもりで始めることにした。しかし、実際にやってみると、ギター三台というのはアレンジがけっこうむつかしい。それならばというので、ベース一台、ギター二台、それに打楽器という4トラックで当面はやっていこう、ときめた。

さて、楽曲の録音に先立って、自分がふだん遊びでぱらぱらと弾いているフレーズが、客観的にはどんなふうに聞こえるのか、ためしに5分ばかり録音してみたが、これを聞き直して、唖然としてしまった。音をとちる、フレーズが歌っていない、リズムはよれよれ、というていたらく。ぴかぴかに磨いた鏡に自分の顔を映して、あらためておのれの不細工さ加減に驚くのとよく似ている。

しかしまあ、うまい、へたは置いといて、フレーズの感じがコリエル、マクラフリンによく似ているのは自分でも意外だった。いっぽう、自分ではけっこう影響を受けているつもりの、ディメオラ先生にはあまり似ていない。パコはもちろん楽器も奏法も違うので、似ているわけがない。

やはり自分のルーツはコリエル、マクラフリンなのか、と今にして思う。半世紀も前の音楽や奏法から抜け出せていないわけだ。しかし、それは諦めというようなものではなく、自分の原点は間違っていなかった、という郷愁にも似た安堵の思いに私を憩わせてくれる。

コリエルでは、やはりゲイリー・バートンとやっていたころがいちばん魅力的だ。名盤「ダスター」から、若さと才気に満ちた「祈祷式(Liturgy)」を貼り付けておこう。



マクラフリンでは、初期の「マイ・ゴールズ・ビヨンド」が私のオール・タイム・ベストだ。このアルバムをしめくくる「ブルー・イン・グリーン」のすばらしさは格別で、マイルスもエヴァンスも到達できなかった、ある種の至高点に達していると思う。


メタ・コレクター

樋口一葉たけくらべの原稿がオークションにかけられ、けっこうな値段で落札されたとのこと。ううむ、いったいどういう人が落札したんでしょうね。

前所有者は飲食店の経営者で、「価値のわかる人に譲りたい」とのことでオークションに出品したらしい。価値のわかる人。これはよく目にするフレーズだ。まあ、たしかにそれはコレクターの本音ではあるだろう。

しかし、じっさいはどうだろうか。価値がわかろうがわかるまいが、貴重品は金のある人のところへ行くのが常道だ。コレクションにあたって大切なのは、審美眼ではなくて財力なのである。

私も数年間、コレクションに憂き身をやつしてきて、それがはっきりと富の世界であることに気づいたとき、ここは自分のいるべきところではないな、と悟った。

それ以来、私はコレクションしないコレクター、つまりメタ・コレクターになることにきめた。

メタ・コレクターの目からすれば、一葉の貴重な自筆原稿を、飲食店の経営者が所有していて、みずから「価値がわかる」と思い込んでいるのがそもそも噴飯物なのである。