本の余白に

読書メモ

ギターをふたたび手にして

先日(6月19日)ヤフオクにてギターを買った。初めは千円くらいで売ってないかな、と思って見ていたが、さすがにそんなに安いのはない。けっきょくはそれなりの金額のものを購入。

ギターを弾くなんて30年ぶりくらいになるだろうか。ベースやコントラバスを弾いていたので、最初に手にとったとき、ギターってこんなに小さい楽器だっけ、と思ってしまった。フレット間隔なども子供サイズにみえてしまう。

とはいうものの、じっざいに弾いてみると、コードひとつまともに押えられない。いわゆるバレーコード。これがきついのなんの。狭そうにみえたフレット間隔も、5フレット分指を開こうとするとけっこう大変だ。やはり、そんなに生易しい楽器ではない。

とはいっても、ギターを弾くこの楽しさは何だろう。ユーチューブなどをみると、ギターの弾き方講座みたいな動画は山のようにある。それだけ人に愛されている楽器なのだ。

数日前、弦を買うために楽器屋へ行ったが、そこでもアコースティックギターがけっこう人気のようで、安いのから高いのまでずらりと並んだところは壮観だった。私の若いころは、アコギといえば4畳半フォークという感じで、貧乏くさい楽器の筆頭だったが……

アコギが4畳半フォーク的な印象を脱したのは、私の場合はスーパーギタートリオの演奏に接したときだった。あれには驚かされたなあ。しばらくはピックを握って早弾きの真似事ばかりしていた。

あれから30年。当時のトリオのめんめん(4人いる)のうち、すでに二人は物故している。嗚呼。

さて、さっきコードもまともに押えられない、と書いたが、これではいかんとかつて買い求めた教則本を引っぱり出してきた。そのうちの一冊が、高橋信博の「ジャズ・ギタリストのためのヴォイシング・テクニック」というもの。30年前はまったく歯が立たなかったが、今回はどうだろうか。このあたりを中心にギターの練習をしていこう。

ところで、いま高橋信博と呼び捨てにしたが、この人はまだご存命であり、私にとっては別格の存在なのである。というのも、30年前のギターマガジンにはこの人の「ジャズインプロヴァイザーのためにアイディア」とかいうコラムが連載されていて、それを見ながらすごい人がいるものだといつも感嘆していた。

何年か前に、たまたま本屋でギターマガジンを手にとったとき、あれはまだやっているのかな、と思ってページをくると、まだやっていた! あれというのはもちろん高橋さんの連載だ。プロフィール写真をみると、いつのまにか禿げている。

禿げるのも道理、高橋氏はこの連載をなんと35年間もつづけたらしい。35年! これはもうほとんどライフワークと称すべきものではないか?

私なんかは、いや私でなくとも、この連載を単行本化してほしいという要望は少なからずあるだろう。しかし当の高橋氏はどうだろう。人間、35年も同じ分野で働いてくると、当然のように、若いころの認識不足や勇み足に不満をおぼえるようになる。よくまあこんな幼稚なことを得々として書いていたな、と気恥ずかしくなるだろう。私がもし氏の立場だったら、過去の記事なんぞはまとめて抹殺したくなると思う。

そういえばそんな連載があったね、というふうに、人々の記憶にかすかに残っていればいいのかもしれないな、と思う。

まあそういう次第なので、公刊された氏の数少ない著作は大切にされなくてはならない。私も今回はこれを最後と、上記の本を「あげる」つもりだ。

田島裕子「あざやかに生きて」

たった一回聴いただけの曲が、なぜか執拗に記憶にとどまり続けることがある。たとえば私の場合、田島裕子の「あざやかに生きて」がそれだ。

じつはこの歌手名も、曲名も、知ったのはつい最近のことで、私のなかでは長いこと「しなやかに生きて」という誤った曲名で記憶されていた。大昔にテレビで一度だけスタジオライブがあって、そのとき聴いて鮮烈な印象を受けた曲だが、その後まったく耳にしないまま今日まできた。

かつては検索エンジンが貧弱で、インプットに誤りがあるとなにも手がかりが得られないのがふつうだったが、最近では正解の周辺までカバーしてくれているので、「しなやかに生きて」で検索すると、「あざやかに生きて」という曲が引っかかってくる。もしやと思って調べてみたら、これこそ私が長年求め続けていた曲だということがわかった。

この曲はCMとのタイアップで世に出たものらしいが、売れたのかどうか定かではない。ヒットチャートのどのあたりまで行ったのか、いまは確かめるすべがない。しかし、中古でシングル盤がけっこうな数出回っているので、まったく売れなかったわけではなさそうだ。あるいは、作ったものの売れ行きがぱっとせず、ゾッキに流れたものもあるのかもしれない。

まあそういうわけで、中古シングル盤を買ってみた。



1979年に出たというから、私が高3のころだ。それだけでも個人的にはとめどなく思い出がよみがえってくるが、そんなこととは関係なく、これは無条件にいい曲だと思う。

この曲のなにが当時の私にアピールしたか。いま考えてみれば、おそらくフランス印象派にも通じるオリエンタルな曲調、きっちり閉じない小節と不揃いな拍、それに最後のサビのところの転調だろう。このサビはじつにファンタスティックで、聴いていて思わず引き込まれる感じだ。


かつて youtube にアップされていたようだが、現在では削除されているので、もう一度アップしておこう。あまり需要はないかもしれないが、こんないい曲が埋もれたままなのは残念なので。


www.youtube.com


1979年。考えてみればもう40年近くも前だ。ヴォーカルの田島さんはお元気なのだろうか。どこかで活動しておられるなら、ぜひ知りたく思う。


     * * *


最後に、曲のデータと、ジャケット裏のライナーを紹介しておく。


岡田冨美子作詩、樋口康雄作曲・編曲

第10回(1975年)ポップコンつま恋本選会に、彼女自身の作品「目をそらさないで」で中島みゆき庄野真代因幡晃、本間由理とともに出場。第14回(1977年)には「気になる人」でツイストとともに再びステージをふむ。


持ちまえのライターとしての資質はこれまでのグループ活動時代からもうかがわれ、従来、明るいラブ・ソングが多かったのに加え、最近ではメランコリックな女の情感を感じさせる作風にまでひろがってきた。現在ヤマハ音楽工房の作家グループに所属、作品数約50曲。


大阪で子供達にピアノを教えたりポップコン大阪でパワーフル・トマトというコーラスグループのリーダーとして、スタジオ、ステージ等で活躍。

金原ひとみ「蛇にピアス」

「かたち三昧」に導かれて手にとった本。

高山氏はフィグーラ・セルペンティナータつながりで、蛇と名のつくものはいちおうチェックしないと気がすまないらしい。同様の性癖は私にもあるので、氏の気持はよくわかる。が、しかし、よりにもよって金原ひとみの「蛇にピアス」とは……

私はこの小説については、芥川賞をとったことしか知らない。どういう話なのかも知らないし、まったく興味はなかった。今回、「かたち三昧」を読まなければ、一生手にとることもなかっただろう。

これもなにかの縁と思ってアマゾンで探してみると、古本の文庫が一円で売っていた。かりにも芥川賞をとった小説が一円……。まあ、安いにこしたことはないので、作者にはわるいと思いながらこの一円本を買って読んでみた。

いや、案に相違して非常にいい。金原ひとみなんてどうせろくなものではあるまい、とたかをくくっていたのは私の誤りだった。芥川賞に値するかどうかは、少々疑問ではあるけれども……

まあこの小説については多くの人が語っているだろうから、私がここで屋上屋を架す必要はないだろう。そこでふたたび「かたち三昧」に戻って、高山氏がどう書いているか、確認してみたら……

「……二人の男と一人の女の倒錯的三角関係という以上、アダム、イヴ、悪魔の失楽園神話を忘れるわけにもいかない。悪魔が姿を変えたエデン神苑の蛇は、二枚舌(ダブルタン)。金原ひとみ最高の綺想は誘惑者の二枚舌を、文字通り「分かれた舌(スプリットタン)」という身体変工に物質化した点にある」

ええと、誘惑者つまり悪魔の役はシバさんで、彼はスプリットタンなんかやっていないんですけど。

一事が万事。氏の射た矢はつねに正鵠を失する。しかし矢が当ろうが外れようが、そんなことはどうでもいい。矢が空中に描き出す線がうつくしく「かたち三昧」していさえすれば。


蛇にピアス (集英社文庫)

蛇にピアス (集英社文庫)

ホッケの本の余白に

サンタナの名曲に哀愁のヨーロッパというのがあるが、私の場合は郷愁のヨーロッパだ。ヨーロッパというものがもはやノスタルジーの対象でしかなくなっている。

先日読んだ「かたち三昧」に導かれるようにして、本棚からホッケの「迷宮としての世界」を取り出して拾い読みする。たとえば「ルドルフ二世時代のプラーハ」。この熱っぽさ、人を惹きつける魅力はどうだろう。

「もしもヨーロッパに、国家的地方的独自性によって化学的に精製されたマニエリスムの百科全書的環境が、かつて一度でも存在したとすれば、それはルドルフ二世時代のプラーハにおいてであった」

こういう名セリフにかつての私は酔っていた。そうだ、私にとってのヨーロッパはこの本のなかにすっぽりと収まっている。

この本は副題に「マニエリスム美術」とある。マニエリスム越しに眺めるヨーロッパとは何か。私の印象でいえば、それは反ヨーロッパでもなければ非ヨーロッパでもない。まぎれもない正統的ヨーロッパ精神の、ただし夜の顔なのである。

私はこの本のなかのヨーロッパ、つまりヨーロッパの夜の顔さえじゅうぶんわがものにできなかった。そして、ヨーロッパにはさらに昼の顔があるのだ。

われわれにとってヨーロッパとは、近づけば近づくほど遠のいて行く風景なのである。

そう思いながら読むホッケのなんと甘く、そして苦いことか。ほとんど息苦しさをおぼえるほどだ。

この息苦しさは、ノスタルジーにつきもののそれである。私のヨーロッパが郷愁のヨーロッパになり果てているのは、このことからも分るだろう。


迷宮としての世界(上)――マニエリスム美術 (岩波文庫)

迷宮としての世界(上)――マニエリスム美術 (岩波文庫)

かたち三昧(高山宏著)を読んで

高山宏の本はどれもおもしろい。そのことを認めたうえでいうのだが、氏の本を読んでいると、どうもこっちの頭がどんどんわるくなるような気がする。氏の好んで口にされる「おバカ~」にこっちがなってしまうのである。どうしてこうなのか。

そもそも氏の本を読んだあとに何が残るかというと、何人もの作家や研究者の名前と、かれらの書いた本の名前、それだけである。取り扱われた対象は夢幻のごとく消え失せ、書き手たる高山氏の姿ももはやそこにはない。いったい自分はなにを読んでいたのか、そこではなにが問題だったかもはっきりとは思い出せない。

これはおそらく私にかぎったことではなく、たいていの高山ファンに共通したものではないかと思う。で、この不可解なまでの捉えどころのなさが何に起因するかというと、おそらくそれは氏が極度の弱視であることと無関係ではない。

自分の眼だけではものが見えない(見えにくい)人はどうするか。眼鏡をかける。それは当然だ。しかし、私は自分も目がわるいのでよく分るのだが、眼鏡をかけて見た対象と、裸眼で見た対象とは、同じようにみえてじつは微妙に違うのである。微妙に? ──いやいや、微妙ではあるが、そこには決定的な違いがある。

その違いを一言でいえば、裸眼で見た対象がそのまますんなりと自分のなかに入ってきて、そこに対象と自己との一体感が生じるのに対し、眼鏡越しに見る対象は、どこまでも一抹の違和感がぬぐい切れず、自己と完全に同化するには至らないのである。裸眼でみる対象が、手でぐっとものをつかむような生々しいリアル感を伴うのに対し、レンズ越しに見る対象には、どこまでいっても手では触れない、いまいましくなるようなもどかしさがある。

高山氏は本を読むのに、モノとしての眼鏡をかけるのみならず、さまざまな研究者の書物という、比喩的な眼鏡をかける。それもかけてかけてかけまくる。このような場合、見ている対象の姿はどう映るだろうか。

眼鏡は多くかければかけるほど、その映す対象は本来のあり方から遠ざかっていく。どんどんリアルではなくなっていく。つまり事象性を失って、抽象的な「かたち」になっていくのである。

「かたち」とは、事象から事象性を奪ったところに生じるなにものかであり、その限りではイコンというよりイデアにきわめて近い。

高山氏はこのイデアとしての「もの」をイコンのつもりで見るから、われわれにはなんのことかさっぱり分らず、五里霧中ということになってしまうのではないか。

そんなことを思いながら読んだ「かたち三昧」でした。


かたち三昧

かたち三昧