本の余白に

読書メモ

金原ひとみ「蛇にピアス」

「かたち三昧」に導かれて手にとった本。

高山氏はフィグーラ・セルペンティナータつながりで、蛇と名のつくものはいちおうチェックしないと気がすまないらしい。同様の性癖は私にもあるので、氏の気持はよくわかる。が、しかし、よりにもよって金原ひとみの「蛇にピアス」とは……

私はこの小説については、芥川賞をとったことしか知らない。どういう話なのかも知らないし、まったく興味はなかった。今回、「かたち三昧」を読まなければ、一生手にとることもなかっただろう。

これもなにかの縁と思ってアマゾンで探してみると、古本の文庫が一円で売っていた。かりにも芥川賞をとった小説が一円……。まあ、安いにこしたことはないので、作者にはわるいと思いながらこの一円本を買って読んでみた。

いや、案に相違して非常にいい。金原ひとみなんてどうせろくなものではあるまい、とたかをくくっていたのは私の誤りだった。芥川賞に値するかどうかは、少々疑問ではあるけれども……

まあこの小説については多くの人が語っているだろうから、私がここで屋上屋を架す必要はないだろう。そこでふたたび「かたち三昧」に戻って、高山氏がどう書いているか、確認してみたら……

「……二人の男と一人の女の倒錯的三角関係という以上、アダム、イヴ、悪魔の失楽園神話を忘れるわけにもいかない。悪魔が姿を変えたエデン神苑の蛇は、二枚舌(ダブルタン)。金原ひとみ最高の綺想は誘惑者の二枚舌を、文字通り「分かれた舌(スプリットタン)」という身体変工に物質化した点にある」

ええと、誘惑者つまり悪魔の役はシバさんで、彼はスプリットタンなんかやっていないんですけど。

一事が万事。氏の射た矢はつねに正鵠を失する。しかし矢が当ろうが外れようが、そんなことはどうでもいい。矢が空中に描き出す線がうつくしく「かたち三昧」していさえすれば。


蛇にピアス (集英社文庫)

蛇にピアス (集英社文庫)

ホッケの本の余白に

サンタナの名曲に哀愁のヨーロッパというのがあるが、私の場合は郷愁のヨーロッパだ。ヨーロッパというものがもはやノスタルジーの対象でしかなくなっている。

先日読んだ「かたち三昧」に導かれるようにして、本棚からホッケの「迷宮としての世界」を取り出して拾い読みする。たとえば「ルドルフ二世時代のプラーハ」。この熱っぽさ、人を惹きつける魅力はどうだろう。

「もしもヨーロッパに、国家的地方的独自性によって化学的に精製されたマニエリスムの百科全書的環境が、かつて一度でも存在したとすれば、それはルドルフ二世時代のプラーハにおいてであった」

こういう名セリフにかつての私は酔っていた。そうだ、私にとってのヨーロッパはこの本のなかにすっぽりと収まっている。

この本は副題に「マニエリスム美術」とある。マニエリスム越しに眺めるヨーロッパとは何か。私の印象でいえば、それは反ヨーロッパでもなければ非ヨーロッパでもない。まぎれもない正統的ヨーロッパ精神の、ただし夜の顔なのである。

私はこの本のなかのヨーロッパ、つまりヨーロッパの夜の顔さえじゅうぶんわがものにできなかった。そして、ヨーロッパにはさらに昼の顔があるのだ。

われわれにとってヨーロッパとは、近づけば近づくほど遠のいて行く風景なのである。

そう思いながら読むホッケのなんと甘く、そして苦いことか。ほとんど息苦しさをおぼえるほどだ。

この息苦しさは、ノスタルジーにつきもののそれである。私のヨーロッパが郷愁のヨーロッパになり果てているのは、このことからも分るだろう。


迷宮としての世界(上)――マニエリスム美術 (岩波文庫)

迷宮としての世界(上)――マニエリスム美術 (岩波文庫)

かたち三昧(高山宏著)を読んで

高山宏の本はどれもおもしろい。そのことを認めたうえでいうのだが、氏の本を読んでいると、どうもこっちの頭がどんどんわるくなるような気がする。氏の好んで口にされる「おバカ~」にこっちがなってしまうのである。どうしてこうなのか。

そもそも氏の本を読んだあとに何が残るかというと、何人もの作家や研究者の名前と、かれらの書いた本の名前、それだけである。取り扱われた対象は夢幻のごとく消え失せ、書き手たる高山氏の姿ももはやそこにはない。いったい自分はなにを読んでいたのか、そこではなにが問題だったかもはっきりとは思い出せない。

これはおそらく私にかぎったことではなく、たいていの高山ファンに共通したものではないかと思う。で、この不可解なまでの捉えどころのなさが何に起因するかというと、おそらくそれは氏が極度の弱視であることと無関係ではない。

自分の眼だけではものが見えない(見えにくい)人はどうするか。眼鏡をかける。それは当然だ。しかし、私は自分も目がわるいのでよく分るのだが、眼鏡をかけて見た対象と、裸眼で見た対象とは、同じようにみえてじつは微妙に違うのである。微妙に? ──いやいや、微妙ではあるが、そこには決定的な違いがある。

その違いを一言でいえば、裸眼で見た対象がそのまますんなりと自分のなかに入ってきて、そこに対象と自己との一体感が生じるのに対し、眼鏡越しに見る対象は、どこまでも一抹の違和感がぬぐい切れず、自己と完全に同化するには至らないのである。裸眼でみる対象が、手でぐっとものをつかむような生々しいリアル感を伴うのに対し、レンズ越しに見る対象には、どこまでいっても手では触れない、いまいましくなるようなもどかしさがある。

高山氏は本を読むのに、モノとしての眼鏡をかけるのみならず、さまざまな研究者の書物という、比喩的な眼鏡をかける。それもかけてかけてかけまくる。このような場合、見ている対象の姿はどう映るだろうか。

眼鏡は多くかければかけるほど、その映す対象は本来のあり方から遠ざかっていく。どんどんリアルではなくなっていく。つまり事象性を失って、抽象的な「かたち」になっていくのである。

「かたち」とは、事象から事象性を奪ったところに生じるなにものかであり、その限りではイコンというよりイデアにきわめて近い。

高山氏はこのイデアとしての「もの」をイコンのつもりで見るから、われわれにはなんのことかさっぱり分らず、五里霧中ということになってしまうのではないか。

そんなことを思いながら読んだ「かたち三昧」でした。


かたち三昧

かたち三昧

「宦官」 三田村泰助著

中国という国の変態性、異常性がよくわかる本。「宦官の研究は、単なる猟奇的な好奇心をこえて、中国史の重要な課題の一つである」と著者はいうが、「単なる猟奇的な好奇心」の向こうに広がるのは、さらに奥深く複雑な猟奇の世界なのであった。

日本は建国以来、つい最近にいたるまで、中国を偉大な手本としてきた。しかし、日本が取り入れた中国文化は、そのほんの上澄み、精華だけであって、その下にあるどろどろしたもの、非合理なものは棄てて顧みなかった。それはそれでよかったし、日本という狭い小さい国には、そういう大陸文化の根底に横たわる非合理の層などしょせん根づきはしなかっただろう。

われわれは宦官を通じて、そういう中国の底知れなさの一端を垣間見ることができる。もう今から半世紀も前に出た本なので、情報としては古くなっているかもしれないが、入門書としては最適の一冊だと思う。


宦官(かんがん)―側近政治の構造 (中公新書)

宦官(かんがん)―側近政治の構造 (中公新書)

「男が女になる病気」植島啓司

これはいわゆる「壁投げ本」だが、取るべきところがまったくないかというと、そうでもない。

取るべきところ、それは両性具有のテーマと、ホモセクシャルと、身体改造に関する部分で、おそらく著者としてはこういったことが書きたくて、それでむりやりエナレスなんていうものを持ち出して「学問」としての体裁を整えたんじゃないか、という気がする。

サブインシジョンといえば、「ググるな危険」にもカテゴライズされている要注意ワードだが、1980年という時期にすでにこれに関して「下部切開」の訳語のもとに適切な紹介がなされていること、さらにそれを古代ローマの少年皇帝ヘリオガバルスの人工女陰に比較しているところなんかはかなりの卓見というべきだろう。

あと、文庫版155ページにある、「(現実の世界と)異なる世界との間を自由に往復できる人間こそが神聖とされた」という指摘もすばらしい。両性具有が完全人の象徴なのも、男女というジェンダーの壁をやすやすと通り抜ける、その自在さにあるのではないか。

というわけで、ところどころに卓見が光る本ではあるが、そういうものを探して読むだけの価値があるかというと疑問だ。つまらない記述が多すぎて、読んでいるとイライラが募ってくるので、よっぽど精神的に安定しているときに読むべき本だと思う。


男が女になる病気 (集英社文庫)

男が女になる病気 (集英社文庫)