本の余白に

読書メモ

稲垣足穂「少年愛の美学」

これはいいときにいいものを読んだ。というのは──

男性も更年期を迎えるころにはあっちのほうがさっぱりご無沙汰になる。それはそれでいいのだが、これまでP(すなわち penis)を中心にして築き上げてきた自我が、Pの衰勢とともに崩壊の危機にさらされるのである。これはじっさいクリティカルな状況だ。下手をすると鬱になりかねない。バイアグラを飲んで乗り切る(?)のもひとつの手だが、もうひとつの冴えたやり方がある。それは自我の中心をPからA(すなわち anus)に切り替えるのだ。

じつをいうと、切り替えるというのは正しくない。なぜなら、A感覚こそが人間を生まれてから死ぬまで導いている原感覚であって、P感覚なんていうものはAのあとにできた、いわばA'のごときものにすぎないのだから。

P感覚をカッコに入れて、幼少時から培ってきたA感覚を再興させること、すなわちA感覚的還元こそが更年期をぶじ切り抜けるための要諦でなければならない。

まあ、ほかの人はどうか知らないが、私はそういうふうに本書を読んだ。そしてそんなふうに読むと、本書はじつにおもしろい。

A感覚の再興とともに、いままでまったく興味がなかった少年愛というものががぜん気になり始める。よくBLだとかショタだとかいった言葉をネットでも目にするが、そういうものに興味をもつときがくるとは自分でも思わなかった。

あくまでもA感覚にこだわる著者にとっては、紅顔の美少年は「肛顔の美少年」でなければならない。いいかえればA顔の美少年だ。著者にとって、P顔の美少年などというものは存在しない。いかなる美少年もP臭くなってしまってはおしまいだ、というのが著者の意見。

私もPに見離された今だからこそ、肛顔の美老年を目指したいと思う。


少年愛の美学 (河出文庫)

少年愛の美学 (河出文庫)

マラルメとボルヘス

マラルメの命題「世界は一冊の本となるべく存在している」は、100年前には気の利いたキャッチコピーだったかもしれないが、こんにちではどうだろうか。

そのマラルメのあとをうけて、ボルヘスは「砂の本」を夢想する。時間的にも空間的にも無限のものを一冊に収めた書物

「夏が過ぎ去る頃、その本は怪物だと気づいた。……それは悪夢の産物、真実を傷つけ、おとしめる淫らな物体だと感じられた」

しかし、われわれのこんにち親しんでいるネットならびにその端末は、一種の「砂の本」ではないだろうか。書物概念を拡大していけば、ネットの全体を「一冊の本」と見なす立場も「あり」だと思うのである。

そう考えてくると、マラルメのテーゼもいちがいに古いと斥けるわけにはいかないだろう。

ボルヘスはネットを知らずに死んだが、もしいまのパソコンやスマホを見たなら、これらをしも「悪夢の産物、真実を傷つけ、おとしめる淫らな物体」ときめつけただろうか?


砂の本 (集英社文庫)

砂の本 (集英社文庫)

ギリシャ語入門

最近なにかと世間を騒がせているヒアリ。こやつは学名を Solenopsis invicta という。これだけみれば、わが愛する三葉虫の一種にみえなくもない。まあ三葉虫には学名しか存在しないので、似ているのは当然かもしれないが……

さてこの学名というやつ、一般にはラテン語と思われているようだが、じっさいのところはギリシャ語がもとになっているのが多いような気がする。アルファベットの y, ph, ch, th, ps などが使われていたら、まずギリシャ語起源だと思って間違いない。だから学名に興味をもつと、知らず知らずのうちにギリシャ語のほうへにじり寄っている自分に気づくことになる。

そういう次第なので、三葉虫のコレクションが嵩じてギリシャ語を本格的にやろうと思い立った人がいてもふしぎでなはい。三葉虫のりっぱなコレクションをもとうとすると、お金はいくらあっても足りないが、ギリシャ語のコレクション(というのも変だが、要するにギリシャ語の単語とその用法のストック)は時間をかければ只で手に入る。標本にはお金をつぎ込み、ギリシャ語には時間をつぎ込む。これが三葉虫愛好家としての正しい行き方であろうと考える。

さてそのギリシャ語だが、これはぜんぜん知らないわけではない。文字と、その読み方くらいはだいぶ前に習得した。弟が大学で使っていた教科書を譲り受けて、その最初のほうだけ読んだわけだ。一般的にはギリシャ語の知識はその程度で足りる。ちなみにギリシャ文字で私のニックネームを書くと、κιταριος となる。

このたびその古い教科書を引っぱり出して、一からやってみることにした。アマゾンでみると、この岩波の教科書は新装版が出ていて、なかなか好評のようでもある。これは私には嬉しいことだ。

いずれにしても、私の三葉虫愛が冷めないうちに、この本をマスターする必要がある。時間にすれば、だいたい一年くらいだろうか。

語学の勉強を始めると、なにもすることがなくても退屈するということがなくなる。空いた時間があれば変化形を復習できるからだ。待ち時間といえばだれしもイライラしがちなものだが、これを有効利用できるのはなんといってもありがたい。

一年後、三葉虫と同じくらいにギリシャ語を愛せるようになっていればいいなと思う。


ギリシア語入門 改訂版 (岩波全書 137)

ギリシア語入門 改訂版 (岩波全書 137)

昭和一桁台のエロ

「エロエロ草紙」とはまたすごい題名だね。
昭和五年というから、私の父の生まれた年にこんな本が出た、いや出かけたわけだ。
製本段階で発禁の憂き目にあったため、世には出回らなかったというが、じつは闇で売られていたんじゃないかな。

まあそんなことはどうでもいいとして、80年後の今日これを見ると、「どこがエロやねん」というつっこみは必至だ。
エロ成分ゼロとはいわない。しかし、限りなく稀薄であることは確かだ。
そのかわりといってはなんだが、粋と機知、シックとウィットだけはある。この二つの要素を味わうべき本だが、よくよく見ればこの両者、じつにみごとに空回りしてるんだなあ……エロエロと、いやいろいろと痛い本だ。

80年という年月のためにエロ成分が抜けてしまったのか。それもあるにはあるだろう。しかしそれだけではない。
どうも著者の酒井潔という人が、エロにはあまり興味がなかったのではないか。
そこへいくと、根っからの好き者であるピエール・ルイスの書いたエロエロ草紙、Douze Douzains de Dialogues のエロさよ。これはビデオなき時代の、字で読むビデオクリップだ。

「レヴュウ全盛時代」のなかに、「十四や十五の少女がエロ味を見せやうなんて、それは企む方が無理である」とある。この文を見ただけで、著者が今日的エロからはるか遠い地点にいるのがわかるだろう。

あと、本書14ページに「巷に流るゝ狂燥なジャズの音さえ……」という文があるが、昭和初期にすでにジャズが日本で聴かれていたのは驚きだ。
まあ、戦後も一時期まではアメリカのダンス音楽=ジャズという図式がまかり通っていたわけだが……


エロエロ草紙 【完全復刻版】

エロエロ草紙 【完全復刻版】

シャルル・ヴァン・レルベルグ

毎年この季節になると、ベルギーの詩人のシャルル・ヴァン・レルベルグを思い出す。
この人は私のちょうど100歳年上で、生まれた月もいっしょなら、日も3日しか違わない。
だからどうしたといわれるかもしれないが、こういうところにもなんとなく親近感をおぼえる。

レルベルグは日本ではあまり知られていないが、全世界的に見ても不朽の詩人である。
なぜかといえば、彼はガブリエル・フォーレの晩年の傑作歌曲集「閉ざされた庭」と「イヴの歌」に歌詞を提供しているからで、フォーレの歌曲が聴きつづけられるかぎり、付随的にレルベルグの詩も生きつづけることになるのだ。

フォーレの「閉ざされた庭」に収められている EXAUCEMENT(叶えられる願い) を和訳してみる。

きみがその疲れた額を
光り輝く両手にうずめるとき、
きみの祈りに応えて私の愛が
悲願成就とあらわれますように。


まだふるえているきみの口に
言葉がとだえ、
その口もとがほころんで
金の光に咲く薔薇のようなほほえみを浮べるとき、


きらきらと輝くきみの目に映る
神々しいものの到来を
その暗い心のうちに
しっかりと受けとめるとき、


閉ざされた庭に眠る妖精よ、
きみの静かな、ものいわぬ魂が、
かなえられた甘い願いのうちに
喜びと安らぎを見出しますように。


なんとなく春めいた感じがしませんか?


Faure;Melodies

Faure;Melodies