本、鉱物、音楽

趣味の日記です

夏日つれづれ

初心者がギターを弾くうえでネックになってくるのが、指先の痛みだ。これはほんとにつらくて、このせいでギターをやめていく人も少なくないのではないかと思う。なんとか指先の皮膚を鍛えられればいいのだが、そのためにはギターを弾き続けるしかないという、なんともパラドキシカルな状況なのである。ネットの情報によると、一日1時間弾くとして、だいたい三ヶ月で痛みはおさまるという。私はすでにひと月は越しているので、あと二ヶ月のがまんだ。

ところで、ひとくちにギターといっても、その奏法や曲のジャンルはさまざまで、十人ギタリストが集まれば、十の違ったスタイルがあるといっても過言ではない。私はとりあえずジャズの基本はおさえたいと思っているので、前に書いた高橋氏の教則本をみているが、このなかに「ドナ・リー」のメロディ譜があって、このバップの代表曲はやっぱりギターで弾けるようになっておきたいので、それもあわせて練習している。

バップのメロディというのは、管楽器から出たものだから、弦楽器では弾きにくい。この弾きにくさを克服するのがジャズギターの倒錯的な快楽なのである。ギターでギターらしくないフレーズを弾く……それがはたして意味のあることかどうか、私にはよく分らないが。

あと、私がよくやっているのがアルペジオの練習。アルペジオといっても、右手はフラットピックを握ってやる。左手はコードを押さえっぱなしにするのではなく、一音づつ切る。これでメロディックな分散和音の練習をするわけだ。右手はオルタネイトを中心にアップダウンを織り交ぜる。このフラットピックでのアルペジオも倒錯的な奏法だが、名手になると、音が重なっていないかぎり、指で弾くのと同じくらいのスピードと正確さで弾けるようになるようだ。

エグベルト・ジスモンチの「ローロ」は、ギター三台で合奏するのを前提に練習している。この曲でスーパーギタートリオこっこをしようというのが、私がそもそもギターに手を出した直接の動機だ。

ほか、お遊びで弾くものに、フランス・ギャルのCDに合わせてメロディラインをギターでなぞるというのがある。これは簡単で、しかも最高に楽しい。メロディだけではなく、たとえば「この曲よ(セテールラ)」なんかは、あのキーボードのフレーズやアルペジオはギターで弾いてみたくなりますよね。

そうだ、バッハを忘れていた。彼の無伴奏ヴァイオリンなんかは、ギターでも弾けるのではないか。シャコンヌは無理としても、単音中心のものなら格好の練習曲になる。ほかには「フーガの技法」のなかの拡大反行カノンなども、たぶんギターに向いている。

まあ、こんな感じでギターを楽しんでいます。

ギターその後

夜間の練習用にエレキギターを購入。アマゾンで一万円で買ったものだが、値段のわりにはよくできている。おそらくバンド演奏でもそこそこ使えるのではないか。

このエレキでおもにコードを押さえる練習をしているが、気をつけなくてはいけないのは、エレキでできたからといって、アコギでもできるとは限らないことだ。弦の張力やアクションがかなり違うので、当然といえば当然だが。

いずれにしても、こうしてアコギとエレキとふたつ身近に置いてみると、これまでギターなしにやってこられたことが信じられないくらい、両者ともに私の心に食い入ってくる。

ギターを始めて気づくのは、これまでと音楽の聞こえ方が違ってくること。これはほんとにふしぎで、無意識のうちに「この曲をギターで弾くにはどうしたらいいか」というようなことを考えている。そのことの是非はともかくとして、汎音楽という見地に立つためには、ピアノやギターなどの、いわゆる完全楽器に親しむことが必要なのではないか。


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いま「汎音楽」と書いたが、私がこの言葉を知ったのは高柳昌行の文章からだ。その高柳の文というのは、ジャズ批評の39号、「ジャズ・ギター」に載った「ジャズ・ノート、批判と断想」というもの。これがすばらしくおもしろかったので、私は高柳のファンになった。ギタリストとしてではなく、文筆家として。

ところで、最近彼の論稿をあつめた「汎音楽論集」なるものを読んでみたが、これははっきりいって愚著に近かった。それは、Youtube などで聴取するかぎりでの彼の演奏が愚劣なのと軌を一にしている。どうしてこうなったのか。思索の果てにあるものが僻見であり、汎音楽の極みにあるはずのものが、たんなる騒音だとは?


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さて、上記の「ジャズ・ギター」のなかでもすばらしいのが、星野秋男氏の書いた40ページにも及ぶ論稿「世界のジャズ・ギタリストたち」だろう。ここに紹介された音源は、当時でこそ稀少だったが、いまでは復刻CDや Youtube などで手軽に聴くことができる。なんとありがたい時代になったことか。

私は自分のギター再開を祝して、この論稿に紹介されている名盤のうちから、高柳も推奨するガボール・ザボを数枚と、マクラフリン(g)の入っているケニー・ホイーラー(flhrn)の初リーダー作を買ってみた。60年代の音楽に特有のノスタルジックな雰囲気がすばらしい。

ギターをふたたび手にして

先日(6月19日)ヤフオクにてギターを買った。初めは千円くらいで売ってないかな、と思って見ていたが、さすがにそんなに安いのはない。けっきょくはそれなりの金額のものを購入。

ギターを弾くなんて30年ぶりくらいになるだろうか。ベースやコントラバスを弾いていたので、最初に手にとったとき、ギターってこんなに小さい楽器だっけ、と思ってしまった。フレット間隔なども子供サイズにみえてしまう。

とはいうものの、じっざいに弾いてみると、コードひとつまともに押えられない。いわゆるバレーコード。これがきついのなんの。狭そうにみえたフレット間隔も、5フレット分指を開こうとするとけっこう大変だ。やはり、そんなに生易しい楽器ではない。

とはいっても、ギターを弾くこの楽しさは何だろう。ユーチューブなどをみると、ギターの弾き方講座みたいな動画は山のようにある。それだけ人に愛されている楽器なのだ。

数日前、弦を買うために楽器屋へ行ったが、そこでもアコースティックギターがけっこう人気のようで、安いのから高いのまでずらりと並んだところは壮観だった。私の若いころは、アコギといえば4畳半フォークという感じで、貧乏くさい楽器の筆頭だったが……

アコギが4畳半フォーク的な印象を脱したのは、私の場合はスーパーギタートリオの演奏に接したときだった。あれには驚かされたなあ。しばらくはピックを握って早弾きの真似事ばかりしていた。

あれから30年。当時のトリオのめんめん(4人いる)のうち、すでに二人は物故している。嗚呼。

さて、さっきコードもまともに押えられない、と書いたが、これではいかんとかつて買い求めた教則本を引っぱり出してきた。そのうちの一冊が、高橋信博の「ジャズ・ギタリストのためのヴォイシング・テクニック」というもの。30年前はまったく歯が立たなかったが、今回はどうだろうか。このあたりを中心にギターの練習をしていこう。

ところで、いま高橋信博と呼び捨てにしたが、この人はまだご存命であり、私にとっては別格の存在なのである。というのも、30年前のギターマガジンにはこの人の「ジャズインプロヴァイザーのためのアイディア」とかいうコラムが連載されていて、それを見ながらすごい人がいるものだといつも感嘆していた。

何年か前に、たまたま本屋でギターマガジンを手にとったとき、あれはまだやっているのかな、と思ってページをくると、まだやっていた! あれというのはもちろん高橋さんの連載だ。プロフィール写真をみると、いつのまにか禿げている。

禿げるのも道理、高橋氏はこの連載をなんと35年間もつづけたらしい。35年! これはもうほとんどライフワークと称すべきものではないか?

私なんかは、いや私でなくとも、この連載を単行本化してほしいという要望は少なからずあるだろう。しかし当の高橋氏はどうだろう。人間、35年も同じ分野で働いてくると、当然のように、若いころの認識不足や勇み足に不満をおぼえるようになる。よくまあこんな幼稚なことを得々として書いていたな、と気恥ずかしくなるだろう。私がもし氏の立場だったら、過去の記事なんぞはまとめて抹殺したくなると思う。

そういえばそんな連載があったね、というふうに、人々の記憶にかすかに残っていればいいのかもしれないな、と思う。

まあそういう次第なので、公刊された氏の数少ない著作は大切にされなくてはならない。私も今回はこれを最後と、上記の本を「あげる」つもりだ。

田島裕子「あざやかに生きて」

たった一回聴いただけの曲が、なぜか執拗に記憶にとどまり続けることがある。たとえば私の場合、田島裕子の「あざやかに生きて」がそれだ。

じつはこの歌手名も、曲名も、知ったのはつい最近のことで、私のなかでは長いこと「しなやかに生きて」という誤った曲名で記憶されていた。大昔にテレビで一度だけスタジオライブがあって、そのとき聴いて鮮烈な印象を受けた曲だが、その後まったく耳にしないまま今日まできた。

かつては検索エンジンが貧弱で、インプットに誤りがあるとなにも手がかりが得られないのがふつうだったが、最近では正解の周辺までカバーしてくれているので、「しなやかに生きて」で検索すると、「あざやかに生きて」という曲が引っかかってくる。もしやと思って調べてみたら、これこそ私が長年求め続けていた曲だということがわかった。

この曲はCMとのタイアップで世に出たものらしいが、売れたのかどうか定かではない。ヒットチャートのどのあたりまで行ったのか、いまは確かめるすべがない。しかし、中古でシングル盤がけっこうな数出回っているので、まったく売れなかったわけではなさそうだ。あるいは、作ったものの売れ行きがぱっとせず、ゾッキに流れたものもあるのかもしれない。

まあそういうわけで、中古シングル盤を買ってみた。



1979年に出たというから、私が高3のころだ。それだけでも個人的にはとめどなく思い出がよみがえってくるが、そんなこととは関係なく、これは無条件にいい曲だと思う。

この曲のなにが当時の私にアピールしたか。いま考えてみれば、おそらくフランス印象派にも通じるオリエンタルな曲調、きっちり閉じない小節と不揃いな拍、それに最後のサビのところの転調だろう。このサビはじつにファンタスティックで、聴いていて思わず引き込まれる感じだ。


かつて youtube にアップされていたようだが、現在では削除されているので、もう一度アップしておこう。あまり需要はないかもしれないが、こんないい曲が埋もれたままなのは残念なので。


www.youtube.com


1979年。考えてみればもう40年近くも前だ。ヴォーカルの田島さんはお元気なのだろうか。どこかで活動しておられるなら、ぜひ知りたく思う。


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最後に、曲のデータと、ジャケット裏のライナーを紹介しておく。


岡田冨美子作詩、樋口康雄作曲・編曲

第10回(1975年)ポップコンつま恋本選会に、彼女自身の作品「目をそらさないで」で中島みゆき庄野真代因幡晃、本間由理とともに出場。第14回(1977年)には「気になる人」でツイストとともに再びステージをふむ。


持ちまえのライターとしての資質はこれまでのグループ活動時代からもうかがわれ、従来、明るいラブ・ソングが多かったのに加え、最近ではメランコリックな女の情感を感じさせる作風にまでひろがってきた。現在ヤマハ音楽工房の作家グループに所属、作品数約50曲。


大阪で子供達にピアノを教えたりポップコン大阪でパワーフル・トマトというコーラスグループのリーダーとして、スタジオ、ステージ等で活躍。

金原ひとみ「蛇にピアス」

「かたち三昧」に導かれて手にとった本。

高山氏はフィグーラ・セルペンティナータつながりで、蛇と名のつくものはいちおうチェックしないと気がすまないらしい。同様の性癖は私にもあるので、氏の気持はよくわかる。が、しかし、よりにもよって金原ひとみの「蛇にピアス」とは……

私はこの小説については、芥川賞をとったことしか知らない。どういう話なのかも知らないし、まったく興味はなかった。今回、「かたち三昧」を読まなければ、一生手にとることもなかっただろう。

これもなにかの縁と思ってアマゾンで探してみると、古本の文庫が一円で売っていた。かりにも芥川賞をとった小説が一円……。まあ、安いにこしたことはないので、作者にはわるいと思いながらこの一円本を買って読んでみた。

いや、案に相違して非常にいい。金原ひとみなんてどうせろくなものではあるまい、とたかをくくっていたのは私の誤りだった。芥川賞に値するかどうかは、少々疑問ではあるけれども……

まあこの小説については多くの人が語っているだろうから、私がここで屋上屋を架す必要はないだろう。そこでふたたび「かたち三昧」に戻って、高山氏がどう書いているか、確認してみたら……

「……二人の男と一人の女の倒錯的三角関係という以上、アダム、イヴ、悪魔の失楽園神話を忘れるわけにもいかない。悪魔が姿を変えたエデン神苑の蛇は、二枚舌(ダブルタン)。金原ひとみ最高の綺想は誘惑者の二枚舌を、文字通り「分かれた舌(スプリットタン)」という身体変工に物質化した点にある」

ええと、誘惑者つまり悪魔の役はシバさんで、彼はスプリットタンなんかやっていないんですけど。

一事が万事。氏の射た矢はつねに正鵠を失する。しかし矢が当ろうが外れようが、そんなことはどうでもいい。矢が空中に描き出す線がうつくしく「かたち三昧」していさえすれば。


蛇にピアス (集英社文庫)

蛇にピアス (集英社文庫)