そぞろごと

本、鉱物、音楽、etc.

人もすなる宅録というものを

われもしてみんとて、機材一式購入した。といっても、そんなにお金はかからない。2万円でおつりがくる程度。これでちゃんとした録音ができるのだから、ありがたい時代になったものだ。

そもそもなんで宅録などに手を出したかといえば、前に企画したバンド内でのスーパーギタートリオごっこが、諸般の事情で頓挫してしまったので、一人三役をこなすつもりで始めることにした。しかし、実際にやってみると、ギター三台というのはアレンジがけっこうむつかしい。それならばというので、ベース一台、ギター二台、それに打楽器という4トラックで当面はやっていこう、ときめた。

さて、楽曲の録音に先立って、自分がふだん遊びでぱらぱらと弾いているフレーズが、客観的にはどんなふうに聞こえるのか、ためしに5分ばかり録音してみたが、これを聞き直して、唖然としてしまった。音をとちる、フレーズが歌っていない、リズムはよれよれ、というていたらく。ぴかぴかに磨いた鏡に自分の顔を映して、あらためておのれの不細工さ加減に驚くのとよく似ている。

しかしまあ、うまい、へたは置いといて、フレーズの感じがコリエル、マクラフリンによく似ているのは自分でも意外だった。いっぽう、自分ではけっこう影響を受けているつもりの、ディメオラ先生にはあまり似ていない。パコはもちろん楽器も奏法も違うので、似ているわけがない。

やはり自分のルーツはコリエル、マクラフリンなのか、と今にして思う。半世紀も前の音楽や奏法から抜け出せていないわけだ。しかし、それは諦めというようなものではなく、自分の原点は間違っていなかった、という郷愁にも似た安堵の思いに私を憩わせてくれる。

コリエルでは、やはりゲイリー・バートンとやっていたころがいちばん魅力的だ。名盤「ダスター」から、若さと才気に満ちた「祈祷式(Liturgy)」を貼り付けておこう。



マクラフリンでは、初期の「マイ・ゴールズ・ビヨンド」が私のオール・タイム・ベストだ。このアルバムをしめくくる「ブルー・イン・グリーン」のすばらしさは格別で、マイルスもエヴァンスも到達できなかった、ある種の至高点に達していると思う。


メタ・コレクター

樋口一葉たけくらべの原稿がオークションにかけられ、けっこうな値段で落札されたとのこと。ううむ、いったいどういう人が落札したんでしょうね。

前所有者は飲食店の経営者で、「価値のわかる人に譲りたい」とのことでオークションに出品したらしい。価値のわかる人。これはよく目にするフレーズだ。まあ、たしかにそれはコレクターの本音ではあるだろう。

しかし、じっさいはどうだろうか。価値がわかろうがわかるまいが、貴重品は金のある人のところへ行くのが常道だ。コレクションにあたって大切なのは、審美眼ではなくて財力なのである。

私も数年間、コレクションに憂き身をやつしてきて、それがはっきりと富の世界であることに気づいたとき、ここは自分のいるべきところではないな、と悟った。

それ以来、私はコレクションしないコレクター、つまりメタ・コレクターになることにきめた。

メタ・コレクターの目からすれば、一葉の貴重な自筆原稿を、飲食店の経営者が所有していて、みずから「価値がわかる」と思い込んでいるのがそもそも噴飯物なのである。

山崎俊夫「夜の髪」

奢灞都館から出た作品集の第五巻をようやっと入手。4巻まではわりと楽に手に入ったが、最終巻がなかなか見つからない。諦めて図書館で借りようか、とも思ったが、けっきょく定価の倍ほどのお金を払って購入することにした。しかしまあこれは買っておいてよかったと思う。

山崎俊夫については、稲垣足穂が次のように書いている。

下って大正五年頃、山崎俊夫という、『三田文学』『帝国文学』『雄弁』『秀才』『文壇』などに創作を発表していた作家の、『童貞』を題した小説集が、小川四方堂から出ている。これは少年側のデリケートな心理を取上げたもので、童貞、夜の鳥、夕化粧、鬱金桜、きさらぎ、ねがひ、死顔の七篇が収録されている。岩田準一氏編のカタログでは、「悉く衆道情緒を以て書かれたる作品にて、稀有の小説集なるべし」との折紙がついている。


私はこれを読んで、もしや、と思い当る節があった。というのも、むかし受け取った新刊案内のハガキにそれらしい名前を見たような記憶があったからだ。

押入れの抽斗をひっかきまわすと、当時の(30年前の!)ハガキが出てきた。一枚紛失しているようだが、こういうのを保存していたとは自分でもちょっと意外な気がする。



岩田準一が折紙をつけたとあっては、中身は保証されたも同然だ。そこでとりあえず上巻を買って読んでみたが、これが強烈で、残りの巻もぜんぶ揃えて読もう、という気になった。ところが──

あとになればなるほどつまらなくなるんですね。まあ、つまらないといっては語弊があるが、中巻以降はふつうの作家、それもあまりぱっとしない作家という印象だ。

私は上巻(すなわち単行本の「童貞」を中心に編まれた作品集)のうちでも、冒頭の「夕化粧」がいちばん優れていると思う。これは山崎の事実上の処女作で、それまでの習作とは打って変って、形式・内容ともにほとんど完璧といってもいいような、奇蹟的な作品に仕上っている。

 糸のやうな雨がしとしとと紺蛇の目の傘に降りかかる。──
「あたしこのごろは髪の毛が抜けてしやうがないのよ。」
「春の末になるときつとさうなのよあたしも。やになつちやうわねえ。」
 築地のとある橋の上へさしかかつたふたりの娘。
 白粉を臙脂皿の中に溶かしたやうな暮春の重たい空気が、萎え饐えた溝渠の水面にゆたゆたとしばし揺蕩ふうち、はや何時ともなく日は暮れて、ゆふがたから降りだした雨はただ靄のやうにやはらかく街の灯をつつんで、道行く人影の幽かな線をすら宵闇のなかに融かしてしまふ。暗い橋桁の辺は早くも夜の憂鬱にたちこめられて、たぶたぶとした水へ灯影を映しながらついついと溝岸を滑つてゆく「かんてら」の灯も動かなくなつてしまつた。鼠色の空が燻した銀のやうに底光りするのをみれば、今夜あたりはあの雲の辺に月の出てゐるころである。


ここに描かれた大正初年の築地の情景は、ほとんどヴェニスと見紛うばかりのまぐわしさだ。この出だしだけで私はシャッポを脱いだ。山崎俊夫に完全降伏をしてしまった。


     * * *


奢灞都館の作品集は、実質的には「全集」であって、断簡零墨にいたるまで収めてある。よくもここまで集めたな、と感嘆するほどのもの。こんなすばらしい本を作ってくれた出版社と、それを企画した生田耕作にはいくら感謝してもしたりない。

ただし、造本はあまりよくない。函にアラステアの絵をあしらったのはまあいいとして、黒い布の装丁は安っぽいし、用紙も上質とはいいがたく、字体も美しくない。まあ、こういう手作り感のある本のほうが、山崎俊夫にはふさわしいかもしれないが……

なお、紹介者の生田耕作は、山崎の作品について「わが鏡花と、荷風と、江戸歌舞伎と、そして西欧世紀末文学とを混ぜ合わせ、これを天草切支丹天主堂の地下倉に貯えて醸造した摩訶不思議の美酒……とでも謂えようか」と書いている。


     * * *


最後に、今回買った最終巻について少し書いておこう。この巻には、岩田準一のいわゆる「衆道情緒」の横溢した短歌が収録されていて、これを見るだけでも買った甲斐はある。

そのうち、いくつかあげてみると──

かぐはしき血の塊をかげよかし古りたる胸をのみ打てる人
腐りゆく葡萄の房のほの匂ふそれかの如く胸怪しかり
かたはらにきみはありけりかたはらにきみはあらざり夢の憎さよ
なつかしき丁香とおもへ慕はしき伽羅ともおもへきみかづく夢
思ひいづかのきぬぎぬのわかれよりきみが瞳は太陽を怖づ
蝋燭のまつしろき涙かりそめにつもれるほどの夜をへぬるべし
首ほそきわかき俊夫なゆめひとに知らせたまひそをのこならじと
艸摺のいとかすかなる音に似るわが魂の春のめざめよ
きみが眼はあまりうつくしくちびるはあまりかはゆしわれは死ぬらん
少年の思ひ出としてそのかみの幻としてきみを眺めん
男とは世を欺きしかりの名かあまりにもろき性をもちたり
たはれ男に追はるる毎につくづくとこの身生みたる母を恨みし
朝顔まひるを待たで萎むかなわれもそのごとはやく死なまし

PPMの世界観

最近よく見かけるような気がする言葉に、「世界観」というのがある。われわれ旧弊人からすると、世界観といえばドイツ語のヴェルトアンシャウウングの訳語であって、もともとは哲学用語なのだが、それがだんだん拡張されて、人生観やら価値観というような意味合いをもつ場合もある。しかし、最近の若い人が使う世界観という言葉は、そういったものとは違うようだ。かれらはいったいどういう意味でこの言葉を使っているのだろうか。

ところで、いきなり話が逸れるが、最近ピーター・ポール&マリー(略称PPM)のファーストアルバムを買ってきて聴いてみた。もう半世紀以上も前の作品で、時代的にはビートルズ以前ということになる。さすがに私の先輩でもリアルタイムで聴いている人はいなかったが、それでもときどきは話題に出ていたように思う。私の中では、フォークソングの草分け的存在で、古くさい牧歌的な音楽をやってるんだろう、というくらいの認識だった。


Peter, Paul And Mary

Peter, Paul And Mary


じっさいにCDを聴いてみたところ、私の認識はおおむね外れてはいなかったが、重大なところで思い違いをしていた。それというのは、メンバーそれぞれがとてつもなく高度な演奏力をもっていることと、かれら三人の結集による相乗効果で、その演奏が通常のフォークとは別次元の高みにまで達していることだ。

別次元というのは、別乾坤といいかえてもよく、つまるところまったく知らなかった世界がそこに開けていることを意味する。簡単にいえば、PPMの世界、ということになるのだろうが、こういう場合、「世界」の一語では、その全領域を覆い尽し得ないようなところがある。

そういうときに、世界にもうひとつ「観」の字を加えて、「世界観」とするのではないか。「方法」をもったいぶって「方法論」という人がいるように、たんに「世界」といえばすむところを、強調の意味合いをこめて「世界観」といっているのではないか。

方法が方法論とは異なるように、世界と世界観とは別物だが、若い人々はそんなことにはおかまいなしに、文字数が多く、かつ耳遠ければ耳遠いだけ、説得力が増すと思っているらしい。「すべからく」を「すべて」の意味に使うのは、その典型だろう。

というわけで、私とって、最近の「世界観」がどうにもなじめない気がするのも、当然のことなのである。

エロチックな愛とアガペチックな愛

エロスとアガペーというのは、愛のふたつの様態として、よく対比的に使われる。しかしわれわれ日本人としては、両者がどう違うのか、よく分りませんよね。

まあ、違いが分らないというのは、分らなくてもいいということなので、とりあえず置いといて、先へ進もう。

だれが言ったのか忘れたが、こういう言葉がある。

「死ぬとはどういうことかって? モーツァルトが聴けなくなることさ」

モーツァルトが大好きな人にとってはそうなのかもしれない。しかし、よくよく考えてもみよ。モーツァルトの音楽などは、とくに私が聴かなくても、世界中の人が聴いている。世代を超え、国を超え、人類の共通遺産として、万人の愛の対象になっている。こういうのは私には非常にアガペチックな愛に思われる。この場合のアガペーというのは、博愛というよりは、人類という大きな集団のもつ、偏愛のことだ。モーツァルトベートーヴェンなんて、門外漢には同じようなものだが、どういうわけかモーツァルト党やらベートーヴェン派というふうに、偏愛の流れができてしまうのである。

その一方で、もし

「死ぬとはどういうことかって? フランス・ギャルが聴けなくなることさ」

という人がいるとすれば、私にはその人が非常にエロチックな人に思われるのである。もちろんこの場合のエロチックというのは、フランス・ギャルの写真を眺めてニヤニヤしているとか、そういう意味ではない。フランス・ギャルという、ほんの一過性の音楽の中に、自分の好みに完全にマッチしたものを見出して、自分と彼女とのあいだに抜き差しならない個人的かつ一回限りの関係を結ぶことが、エロチックなのである。

モーツァルトへの愛の一般性、普遍性と、フランス・ギャルへの愛の特殊性、個別性とを対比させてみて、前者をアガペチックな愛、後者をエロチックな愛というふうに私は考えている。

あと、蛇足ながらつけ加えておくと、アガペチックという言葉は私がアガペーから勝手に作り出した言葉ではない。意味は多少ずれるが、ἀγαπητικὀς という字は古典的なギリシャ語として、辞書にもちゃんと載っている。