本の余白に

読書メモ

「宦官」 三田村泰助著

中国という国の変態性、異常性がよくわかる本。「宦官の研究は、単なる猟奇的な好奇心をこえて、中国史の重要な課題の一つである」と著者はいうが、「単なる猟奇的な好奇心」の向こうに広がるのは、さらに奥深く複雑な猟奇の世界なのであった。

日本は建国以来、つい最近にいたるまで、中国を偉大な手本としてきた。しかし、日本が取り入れた中国文化は、そのほんの上澄み、精華だけであって、その下にあるどろどろしたもの、非合理なものは棄てて顧みなかった。それはそれでよかったし、日本という狭い小さい国には、そういう大陸文化の根底に横たわる非合理の層などしょせん根づきはしなかっただろう。

われわれは宦官を通じて、そういう中国の底知れなさの一端を垣間見ることができる。もう今から半世紀も前に出た本なので、情報としては古くなっているかもしれないが、入門書としては最適の一冊だと思う。


宦官(かんがん)―側近政治の構造 (中公新書)

宦官(かんがん)―側近政治の構造 (中公新書)

「男が女になる病気」植島啓司

これはいわゆる「壁投げ本」だが、取るべきところがまったくないかというと、そうでもない。

取るべきところ、それは両性具有のテーマと、ホモセクシャルと、身体改造に関する部分で、おそらく著者としてはこういったことが書きたくて、それでむりやりエナレスなんていうものを持ち出して「学問」としての体裁を整えたんじゃないか、という気がする。

サブインシジョンといえば、「ググるな危険」にもカテゴライズされている要注意ワードだが、1980年という時期にすでにこれに関して「下部切開」の訳語のもとに適切な紹介がなされていること、さらにそれを古代ローマの少年皇帝ヘリオガバルスの人工女陰に比較しているところなんかはかなりの卓見というべきだろう。

あと、文庫版155ページにある、「(現実の世界と)異なる世界との間を自由に往復できる人間こそが神聖とされた」という指摘もすばらしい。両性具有が完全人の象徴なのも、男女というジェンダーの壁をやすやすと通り抜ける、その自在さにあるのではないか。

というわけで、ところどころに卓見が光る本ではあるが、そういうものを探して読むだけの価値があるかというと疑問だ。つまらない記述が多すぎて、読んでいるとイライラが募ってくるので、よっぽど精神的に安定しているときに読むべき本だと思う。


男が女になる病気 (集英社文庫)

男が女になる病気 (集英社文庫)

今日はボードレールの

悪口を書こう。

私はこの詩人、この世界的詩人が好きなのか、嫌いなのか、これまでずっと自分でも分っていなかった。読み始めたころは、たぶん嫌いだったと思う。芥川の「人生は一行のボードレールにも若かない」というフレーズに導かれるようにして読んでみたものの、なんだか南国の蒸し暑い感じがして好きになれなかった。

しかしそのうちその「嫌い」という感覚がだんだん麻痺してきて、ほとんど「好き」に転向してしまった時期もあった。それはやっぱり鈴木信太郎という訳者の力も大きかったと思う。この人の訳した「露台」とか「秋の歌」には、身に沁むような、懐かしい情緒がそこはかとなく漂っていた。

しかし「露台」や「秋の歌」がいくらすばらしくても、そういうのはボードレールの本質ではないような気がする。たまたま、まぐれ当たり的にいい詩を書いてしまう瞬間もあった、というだけのことだろう。

悪の華」は、まぐれ当たり的ないい詩がほんの少しと、大部分を占めるつまらない詩で構成されている。でもって、長年この詩集に親しんでいると、そういうつまらない、取るに足らない詩篇のほうにボードレールの本質がよく現れているんじゃないか、という気がしてくる。

その本質とは何か、というと、いわゆるジャーナリズム、つまり売文業ですね。

優れた詩人であっても、詩だけでは食えないので、しかたなしに売文をやって身銭をかせぐ、という行き方があって、もちろんそれはそれでいっこうにかまわない。ただ、ボードレールの場合は、詩すらも売文の一環、一方便としているきらいがあって、そういう一種の軽さがだんだん鼻についてくるのだ。

ボードレールの詩は、べつに韻文である必要もなく、散文をむりやり韻文にしあげたようなところがある。なるほど書いてあることはよく分る。しかしその分りやすいところが、もう詩とは縁遠い散文なのだ。要するに彼は散文でも書ける、散文で書いたほうがよく伝わる内容を詩という形式に盛っただけの、エセ詩人である、というのが私の考えだ。

トルストイの芸術論では、フランスの近代、現代詩人がぼろくそに叩かれているが、ボードレールに関する部分だけは正鵠を得ていると思う。

きょうの天地のすばらしさ! くつわも拍車も手綱もつけずに さあ ぶどう酒にまたがって 神々しい夢幻の空へと出発しよう!

執念深い脳の病いに苦しむ二人の天使のように 朝の青い水晶の中 はるかな蜃気楼を追って行こう!

気の利く旋風のつばさの上に ふわりふわりと身を揺られ どちらも互いにわれを忘れて

妹よ 並んで浮かびながら さあ 逃げて行こう うまず休まず わたしの夢の天国のほうへ!

(村上菊一郎訳、「愛し合う二人のぶどう酒」)

稲垣足穂「少年愛の美学」

これはいいときにいいものを読んだ。というのは──

男性も更年期を迎えるころにはあっちのほうがさっぱりご無沙汰になる。それはそれでいいのだが、これまでP(すなわち penis)を中心にして築き上げてきた自我が、Pの衰勢とともに崩壊の危機にさらされるのである。これはじっさいクリティカルな状況だ。下手をすると鬱になりかねない。バイアグラを飲んで乗り切る(?)のもひとつの手だが、もうひとつの冴えたやり方がある。それは自我の中心をPからA(すなわち anus)に切り替えるのだ。

じつをいうと、切り替えるというのは正しくない。なぜなら、A感覚こそが人間を生まれてから死ぬまで導いている原感覚であって、P感覚なんていうものはAのあとにできた、いわばA'のごときものにすぎないのだから。

P感覚をカッコに入れて、幼少時から培ってきたA感覚を再興させること、すなわちA感覚的還元こそが更年期をぶじ切り抜けるための要諦でなければならない。

まあ、ほかの人はどうか知らないが、私はそういうふうに本書を読んだ。そしてそんなふうに読むと、本書はじつにおもしろい。

A感覚の再興とともに、いままでまったく興味がなかった少年愛というものががぜん気になり始める。よくBLだとかショタだとかいった言葉をネットでも目にするが、そういうものに興味をもつときがくるとは自分でも思わなかった。

あくまでもA感覚にこだわる著者にとっては、紅顔の美少年は「肛顔の美少年」でなければならない。いいかえればA顔の美少年だ。著者にとって、P顔の美少年などというものは存在しない。いかなる美少年もP臭くなってしまってはおしまいだ、というのが著者の意見。

私もPに見離された今だからこそ、肛顔の美老年を目指したいと思う。


少年愛の美学 (河出文庫)

少年愛の美学 (河出文庫)

マラルメとボルヘス

マラルメの命題「世界は一冊の本となるべく存在している」は、100年前には気の利いたキャッチコピーだったかもしれないが、こんにちではどうだろうか。

そのマラルメのあとをうけて、ボルヘスは「砂の本」を夢想する。時間的にも空間的にも無限のものを一冊に収めた書物

「夏が過ぎ去る頃、その本は怪物だと気づいた。……それは悪夢の産物、真実を傷つけ、おとしめる淫らな物体だと感じられた」

しかし、われわれのこんにち親しんでいるネットならびにその端末は、一種の「砂の本」ではないだろうか。書物概念を拡大していけば、ネットの全体を「一冊の本」と見なす立場も「あり」だと思うのである。

そう考えてくると、マラルメのテーゼもいちがいに古いと斥けるわけにはいかないだろう。

ボルヘスはネットを知らずに死んだが、もしいまのパソコンやスマホを見たなら、これらをしも「悪夢の産物、真実を傷つけ、おとしめる淫らな物体」ときめつけただろうか?


砂の本 (集英社文庫)

砂の本 (集英社文庫)