本の余白に

読書メモ

ギリシャ語入門

ギリシア語入門 改訂版 (岩波全書 137)

ギリシア語入門 改訂版 (岩波全書 137)


最近なにかと世間を騒がせているヒアリ。こやつは学名を Solenopsis invicta という。これだけみれば、わが愛する三葉虫の一種にみえなくもない。まあ三葉虫には学名しか存在しないので、似ているのは当然かもしれないが……

さてこの学名というやつ、一般にはラテン語と思われているようだが、じっさいのところはギリシャ語がもとになっているのが多いような気がする。アルファベットの y, ph, ch, th, ps などが使われていたら、まずギリシャ語起源だと思って間違いない。だから学名に興味をもつと、知らず知らずのうちにギリシャ語のほうへにじり寄っている自分に気づくことになる。

そういう次第なので、三葉虫のコレクションが嵩じてギリシャ語を本格的にやろうと思い立った人がいてもふしぎでなはい。三葉虫のりっぱなコレクションをもとうとすると、お金はいくらあっても足りないが、ギリシャ語のコレクション(というのも変だが、要するにギリシャ語の単語とその用法のストック)は時間をかければ只で手に入る。標本にはお金をつぎ込み、ギリシャ語には時間をつぎ込む。これが三葉虫愛好家としての正しい行き方であろうと考える。

さてそのギリシャ語だが、これはぜんぜん知らないわけではない。文字と、その読み方くらいはだいぶ前に習得した。弟が大学で使っていた教科書を譲り受けて、その最初のほうだけ読んだわけだ。一般的にはギリシャ語の知識はその程度で足りる。ちなみにギリシャ文字で私のニックネームを書くと、κιταριος となる。

このたびその古い教科書を引っぱり出して、一からやってみることにした。アマゾンでみると、この岩波の教科書は新装版が出ていて、なかなか好評のようでもある。これは私には嬉しいことだ。

いずれにしても、私の三葉虫愛が冷めないうちに、この本をマスターする必要がある。時間にすれば、だいたい一年くらいだろうか。

語学の勉強を始めると、なにもすることがなくても退屈するということがなくなる。空いた時間があれば変化形を復習できるからだ。待ち時間といえばだれしもイライラしがちなものだが、これを有効利用できるのはなんといってもありがたい。

一年後、三葉虫と同じくらいにギリシャ語を愛せるようになっていればいいなと思う。

昭和一桁台のエロ

エロエロ草紙 【完全復刻版】

エロエロ草紙 【完全復刻版】


「エロエロ草紙」とはまたすごい題名だね。
昭和五年というから、私の父の生まれた年にこんな本が出た、いや出かけたわけだ。
製本段階で発禁の憂き目にあったため、世には出回らなかったというが、じつは闇で売られていたんじゃないかな。

まあそんなことはどうでもいいとして、80年後の今日これを見ると、「どこがエロやねん」というつっこみは必至だ。
エロ成分ゼロとはいわない。しかし、限りなく稀薄であることは確かだ。
そのかわりといってはなんだが、粋と機知、シックとウィットだけはある。この二つの要素を味わうべき本だが、よくよく見ればこの両者、じつにみごとに空回りしてるんだなあ……エロエロと、いやいろいろと痛い本だ。

80年という年月のためにエロ成分が抜けてしまったのか。それもあるにはあるだろう。しかしそれだけではない。
どうも著者の酒井潔という人が、エロにはあまり興味がなかったのではないか。
そこへいくと、根っからの好き者であるピエール・ルイスの書いたエロエロ草紙、Douze Douzains de Dialogues のエロさよ。これはビデオなき時代の、字で読むビデオクリップだ。

「レヴュウ全盛時代」のなかに、「十四や十五の少女がエロ味を見せやうなんて、それは企む方が無理である」とある。この文を見ただけで、著者が今日的エロからはるか遠い地点にいるのがわかるだろう。

あと、本書14ページに「巷に流るゝ狂燥なジャズの音さえ……」という文があるが、昭和初期にすでにジャズが日本で聴かれていたのは驚きだ。
まあ、戦後も一時期まではアメリカのダンス音楽=ジャズという図式がまかり通っていたわけだが……

シャルル・ヴァン・レルベルグ

Faure;Melodies

Faure;Melodies


毎年この季節になると、ベルギーの詩人のシャルル・ヴァン・レルベルグを思い出す。
この人は私のちょうど100歳年上で、生まれた月もいっしょなら、日も3日しか違わない。
だからどうしたといわれるかもしれないが、こういうところにもなんとなく親近感をおぼえる。

レルベルグは日本ではあまり知られていないが、全世界的に見ても不朽の詩人である。
なぜかといえば、彼はガブリエル・フォーレの晩年の傑作歌曲集「閉ざされた庭」と「イヴの歌」に歌詞を提供しているからで、フォーレの歌曲が聴きつづけられるかぎり、付随的にレルベルグの詩も生きつづけることになるのだ。

フォーレの「閉ざされた庭」に収められている EXAUCEMENT(叶えられる願い) を和訳してみる。

きみがその疲れた額を
光り輝く両手にうずめるとき、
きみの祈りに応えて私の愛が
悲願成就とあらわれますように。


まだふるえているきみの口に
言葉がとだえ、
その口もとがほころんで
金の光に咲く薔薇のようなほほえみを浮べるとき、


きらきらと輝くきみの目に映る
神々しいものの到来を
その暗い心のうちに
しっかりと受けとめるとき、


閉ざされた庭に眠る妖精よ、
きみの静かな、ものいわぬ魂が、
かなえられた甘い願いのうちに
喜びと安らぎを見出しますように。


なんとなく春めいた感じがしませんか?

牧逸馬「世界怪奇実話」より

千葉のベトナム人女児遺棄事件について mixiニュースを見ていたら、こういうつぶやきがあった。

たしかに!

上記のつぶやきには青空文庫へのリンクが張ってあるから、興味のある人はくだんの「双面獣」(牧逸馬)を読んでみるといい。

作中、次のような一節がある。

またこのドロシイ殺しの恐怖とショックは、地方的なそれから忽ち全国的な恐慌――そして一面には公衆の探偵小説的興味へと漸時に拡大波紋して往った。

探偵小説的興味──そう、野次馬は憤りつつ楽しんでもいるのだ。当り前の話だけどね。

ドロシー・シュナイダー殺しの犯人はアドルフ・ホテリングという46歳の男で、次のような興味深い肖像が残されている。


Adolph Hotelling

大岡信の死によせて


大岡信が亡くなった。
あまりよく知らない人だが、まったく知らないわけじゃない。
雑文と、単行本一冊くらいは読んだかな。
まあそんなものはどうでもよくて、詩人だから詩を読まないと話にならないだろう。
そう思ってうちにある「戦後名詩集」を開いてみる。

わるくない。まったくわるくない。
そりゃあたりまえだろう。
厖大な詩業からわずか数ページの、極上の詩篇を集めてあるのだから。
これでつまんなかったら、ほんとにダメな詩人ということになる。

じっさい、他の詩人のものでも、この詩集に入っている詩はすばらしいのが多い。
詩はアンソロジーで読め、といったのは丸谷才一だった。
まことにもってそのとおり。

どこへゆく。
さわることの不安にさわる。
不安が震えるとがった爪で
心臓をつかむ。
だがさわる。さわることからやり直す。
飛躍はない。
(「さわる」より)


飛躍はない、というのがいいではありませんか。ほんとは飛躍はあるんだけどね。その飛躍が、詩を散文から分かつ境界線だろう。

奇体にも懐かしい名前をもった
すべての土地の聖霊
時間の列柱となって
おれを包んでくれ
(「地名論」より)


土地の精霊、すなわちゲニウス・ロキである。こういうたんなる合言葉に堕しやすい言葉を詩の中に生かして使っているのがすばらしい。

こびびとよ きみの眼はかたつてゐた
あめつちのはじめ 非有だけがあつた日のふかいへこみを
(「丘のうなじ」より)


やはり詩における恋人への呼びかけは「こひびと」にとどめをさす。この詩句に「非有」という観念的な言葉がなかったら、大正時代の詩かと思うだろう。

見よ かの孕み猫を
しなやかに


満ち足りて
臆面もなく


笹に腹をこすつて
目を細めてゐる


命の本質
ぴくぴく息づく保守性が


いま笹に腹をこすつて
目を細めてゐる


ああこの!
ことばなきうたよ


瞼の裏には蔵つてゐるナ
炯々たる眼光を


後ろ肢の温帯には下げてゐるナ
ふうわり閉ざせるピンクの悪所
(「詩とはなにか」より)


飛躍しないことにおいて飛躍する大岡信の面目躍如たる詩篇

ある詩集について

詩集 カンブリア紀

詩集 カンブリア紀


1943年(昭和18年)に、25歳の青年が出した詩集「カンブリア紀」と、その後に書かれた詩やエッセイを合わせて一本としたもの。題名だけ見て「どんな詩集か?」と興味をもつ人がいるかもしれないので、ひとこと書いておけば、ここに集められた詩文はいわゆるカンブリア紀とは何の関係もない。

昭和18年の詩集の後記に、

冥濛ノ広野ハツヅク──「カンブリア紀」ト題シタ所以ハココニアルノカモシレナイ

とあるから、著者としてはこのカンブリア紀という言葉になにか象徴的な意味合いを込めているのかもしれないが、少なくとも私には伝わらなかった。

唯一、太古の世界を歌った「カンブリア紀」という詩篇があるから、これを紹介しておこう。

カンブリア紀──若山牧水



眼のなき魚が棲めるというのは
海底が彼女を
他の生き物とひとしなみに
受け入れてくれるからだ


彼女の大先祖の三葉虫がいた頃は
カンブリア紀──それはもう五億数千万年前の杳かな遥かな大昔


そこにはもう還りようもないが
進化したはずのヒト類=ホモ・サピエンスが 愚劣な戦争を繰り返すかぎり
──富める者と強い奴が君臨していくかぎり
眼のなき魚は 地上には勿論、海面、海中にも棲めない
いちど みんな 地球から亡んでしまって三葉虫となり
海底から出直してみては


すでに ミッドウェイは dead-way に、ガダルカナルはガタガタニナルし
揚句の果ては そこから "転進" に
アッツはアッと "玉砕" ──瓦全ならず
いたるところ 水漬く屍 草むす骸


"聖戦完遂" を 眼の無き魚は
あざ嗤っていたろうに



──海底に
眼の無き魚の
棲むという
眼の無き魚の
恋しかりけり  
牧水


後のほうには現代の風潮を批判したエッセイ風の作品が並ぶが、私がおもしろいと思ったのは、たとえばこんな詩句。

生活保護者といえば白眼視されがちだが
天皇は衣食住とも どだい 金満大尽だ
だから 日本一の生活保護者だ
(「天皇考の若干」より)